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医師の皆さん、「善きサマリア人(びと)の法」という言葉をご存知でしょうか。善意による行動を取った結果が失敗に終わったとしても、その責任を問われないという概念です。
この記事では、医師が知っておきたい「善きサマリア人の法」の概要や日本の現状などを解説します。
執筆者:竹内 想
「善きサマリア人の法」とは
「善きサマリア人(びと)の法」(Good Samaritan law)は、急病人や負傷者を救おうと、善意により良識的かつ誠実な行動を取った場合、失敗してもその責任を問われない(免責する)という趣旨の法律です。アメリカやカナダなどでは、これに該当する法律が存在します。
善意による行動で責任を問われる(訴えられる)となると、人々は萎縮し、良識ある行動を取りづらくなりますよね。そうした懸念を取り払い、傷病者の救護を促すことが、この法律の意図と言えます。
なぜ「善きサマリア人」という名称なのでしょうか。これは聖書の中に記載されているイエス・キリストが語った話に由来します。ある人が強盗に襲われ倒れているところに何人かが通りがかりましたが、皆助けませんでした。そんな中でサマリア人は倒れた人に声をかけ、助けたという話です。
医師が関わる事例
医師がこの法律と関わる事例としてよく挙げられるのは、「飛行機や船で状態が急変した乗客がおり、ドクターコールに応じて治療にあたる」という場面です。ドラマなどでもよく見かけるシーンですが、過去に厚生労働省研究班が実施した調査*1,2によると、航空会社からの救急医療要請を受けた経験がある医師508人のうち、90%が具体的な行動を取ったといい、こうした事例はそこまでレアケースではないことがうかがえます。
平成22年度 循環器疾患等の救命率向上に資する効果的な救急蘇生法の普及啓発に関する研究 緊急医療要請における医師の対応に関する検討(研究分担者 畑中哲生)(11ページ目~)|厚生労働科学研究成果データベース(*1)
平成21(2009)-22(2010)年度 循環器疾患等の救命率向上に資する効果的な救急蘇生法の普及啓発に関する研究|厚生労働科学研究成果データベース(*2)
海外の現状
「善きサマリア人の法」の概要については、ご理解いただけたかと思います。続いて、海外や日本における、この法律をめぐる現状を見ていきましょう。
まずは海外の事例です。アメリカやカナダ、オーストラリアなどでは、「善きサマリア人の法」にあたる法律が施行されています。
アメリカでは、1959年のカリフォルニア州法にはじまり、1987年までに50の州すべてとコロンビア特別区で、相次いで法律が制定されました。これらの多くは救命手当を実施した人が、意図に反して症状を悪化させた場合の責任を免ずることで、自発的な手当を促す「支援型」です。
一方、その場にいる人たちに法律上の救助義務を課し、手当の実施を義務付け、違反した場合の制裁措置を用意する「制裁型」の法が制定されている州もあります。
日本の現状
海外とは対照的に、日本では2023年11月現在、「善きサマリア人の法」に該当する法律はありません。
類似の法律として、民法698条の「緊急事務管理」の規定がよく挙げられます。「管理者は、本人の身体、名誉又は財産に対する急迫の危害を免れさせるために事務管理をしたときは、悪意又は重大な過失があるのでなければ、これによって生じた損害を賠償する責任を負わない」という内容です。
過去に「善きサマリア人の法」の制定が検討されたこともあります。しかし、旧総務庁の「交通事故現場における市民による応急手当促進方策委員会」(1994年)では、「現状においては、現行法の緊急事務管理によってほとんどのケースをカバーでき、免責の範囲はかなり広い」「将来的な課題として、補償関係等も含め、引き続き慎重に検討する必要があるが、現時点では新たな法制定や法改正までは必要がなく、現行法における免責制度を周知させることに力点が置かれる必要がある」と結論付けられました*3。
一方で2010年度には、厚生労働科学研究事業(緊急医療要請における医師の対応に関する検討)が立法化の提言をまとめています。その後も立法化については、議会などでたびたび話題に挙げられています。
民法(明治二十九年法律第八十九号)|e-Gov 法令検索
災害・救急医療における法制度の課題と展望|救急振興財団
交通事故現場における市民による応急手当促進方策委員会報告書|総務庁長官官房交通安全対策室(*3)
平成22年度研究報告 緊急医療要請における医師の対応に関する検討(研究分担者 畑中哲生)(11ページ目~)|厚生労働科学研究成果データベース
第193回国会 決算行政監視委員会第三分科会 第1号 会議録(平成29年4月)|衆議院
立法化への期待
立法化を求める意見では、緊急事務管理規定だけでは不十分であることや、より積極的に救助行為を促進し、社会全体の安全を高める効果が期待できることが理由となっています。
少し前のデータ*4ではありますが、医師67名に対するアンケートで、「ドクターコールに遭遇したら申し出る」と回答した医師は41.8%(28名)だったのに対し、「その時にならないとわからない」と回答した医師は49.2%(33名)、「申し出ない」と回答した医師は7.5%(5名)でした。名乗り出ない理由の一つには「法的責任を問われたくない」(68.7%、46名)、つまり善きサマリア人の法に該当する法律がないことが挙げられています。
また、緊急事務管理規定は民法であるため、対象となるのは民事責任のみであり、刑事免責については規定されていません。産婦人科医として業務にあたっていた医師が業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴された大野病院事件(後に無罪判決)を考えても、民事責任のみでは免責として不十分であるという考えには一定の合理性があると言えるでしょう。
法制定が検討された1994年からは、かなり時間が経っています。その間、市民によるAED使用の解禁がありましたが(2004年7月)、実施率はとくに救命対象が女性の場合は低いという報告があります。女性の場合、素肌を出してAEDを利用することで生じる後々のトラブルを懸念し、使用を躊躇うのではないかという意見があります。善きサマリア人の法に該当する法律があれば、こうした懸念を越えて救命行動を取る後押しになるかもしれません。
立法化への懸念
立法化により懸念される点もあります。救助行為の質の低下や、救助者を過剰に保護してしまうこと、などです。
法律によって救助行為が罷免されるようになると、適切な救助活動が行えない救助者が、(ノーリスクで)自身が注目を集めることだけを目的に救助を行うケースも想定されます。その結果、救急隊などの活動の妨げになってしまう恐れもないとは言えません。
現在はYouTubeやSNSなど、一般人でも他者から注目を集める行為をすることで、配信コンテンツの再生/閲覧数が増え、広告収入を増やせる仕組みが普及しています。「迷惑系YouTuber」という言葉もあるように、過剰な言論・行為が行われる場合もあるため、「善きサマリア人の法」による免責事項が悪用されないような検討も必要です。
物事を急激に、かつ大きく変更すると予期せぬ問題が発生することもあるため、法律の制定や改定には丁寧かつ時間をかけた議論と、場合によっては段階的な施行が必要です。
大きな社会問題や災害、事件・事故などをきっかけに加速する場合もあります。たとえば救急救命士法は、2011年の東日本大震災の後に改正され、重度傷病者に対して救急救命士が行える特定行為が制定されました。見方を変えれば、これは救急救命士という専門職において、救助活動の否を問わない制度とも解釈できます。
すべての国民に適応される「善きサマリア人の法」が、今後すぐに制定されることは考えづらいですが、AEDの普及などを背景に、今後も少しずつ議論が進んでいくのではないでしょうか。仮に日本で「善きサマリア人の法」が導入される場合、世の中の大きなパラダイムシフトにもなり得るでしょう。
まとめ
今回は「善きサマリア人の法」の概要や、日本での現状について見てきました。立法化は私たち医師をはじめ、人々の積極的な救助行為を促し、社会の安全性を高める効果があると考えられる一方、専門的な救助行為の質の低下が生じる懸念もあります。この記事が「善きサマリア人の法」の理解や議論をする上でお役に立てば幸いです。
執筆者:竹内 想
大学卒業後、市中病院での初期研修や大学院を経て現在は主に皮膚科医として勤務中。
自身の経験を活かして医学生〜初期研修医に向けての記事作成や、皮膚科関連のWEB記事監修/執筆を行っている。
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