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およそ100年前、免疫生物学者のPaul Ehrlich(パウル・エールリヒ)は、正常な細胞を傷つけることなく病気の原因となる細胞だけを破壊する治療に対して「魔法の弾丸」という概念を提唱しました。
人類は未だに魔法の弾丸を作れずにいますが、近年開発の進む抗体薬物複合体(ADC)は、まさにそうと言っても過言ではない、新たながん治療薬です。多くの製薬会社が開発を進めており、今後のがん治療のメインストリームになる可能性もあります。この記事ではADCの作用機序や特徴、問題点などについて解説します。
執筆者:中山 博介
ADC(抗体薬物複合体)とは
近年、がん治療の新たな選択肢としてADC(antibody-drug conjugate、抗体薬物複合体)が注目されています。
ADCとは、その名のとおりがん細胞特有の分子に対する抗体と、がん細胞を破壊する薬剤(抗がん剤)をバイオテクノロジーによって複合させたバイオ医薬品の一種です。
抗体・抗がん剤・リンカーの3要素で構成され、リンカーによって抗体部分と抗がん剤部分が血液中で安定的に複合されています。
抗体部分は、抗がん剤が寄り道することなくがん細胞に到達するための乗り物に過ぎません。抗がん剤を効率良くがん細胞内部に到達させることが目的です。ADCががん細胞に到達すると、がん細胞内のエンドソーム・ライソゾームによってリンカーが分解され、切り離された抗がん剤が活性化して抗腫瘍効果を発揮します。
従来のがん治療薬は、がんを破壊する能力はあっても、細胞選択性に乏しいというデメリットを抱えていました。近年開発された分子標的薬は、がん細胞特有の分子を標的にできるため選択性が高い一方で、その分子のみを標的とするため抗腫瘍効果が不十分なことが課題でした。
抗体と抗がん剤を複合したADCは高い細胞選択性と抗腫瘍効果の両方を持ち合わせることから、より高い治療効果が期待できるのです。
がん治療と抗がん剤の歴史
従来のがん治療は、主に下記の3つを主軸としてきました。
- 手術療法
- 放射線療法
- 化学療法
このうち手術療法や放射線療法は、あくまでがん細胞を体から完全に除去することを目的とした根治治療です。
しかし、がんは進行すると血管やリンパ管を介して全身に転移するため、手術療法や放射線療法ですべて取り除くのは不可能です。
化学療法であれば、血流を介して全身にくまなくアプローチできるため、局所にとどまらないがん細胞にも攻撃できます。より強力で選択性の高い理想的な抗がん剤を夢見て、人類はさまざまな抗がん剤を開発してきました。
始まりは20世紀半ば、世界大戦で使用されていた生物兵器「マスタードガス」を元に合成された化合物「ナイトロジェンマスタード」に、DNAのアルキル化作用すなわち抗腫瘍作用が発見されたことでした。その後ナイトロジェンマスタードを骨格とするシクロホスファミドなどが開発され、これを機に代謝拮抗薬(5-FU)や微小管阻害薬(パクリタキセル)など新たな抗がん剤が開発されていきます。
しかし、これらはがん細胞の選択性に乏しく正常細胞をも破壊してしまうため、重篤な副作用が問題でした。そこで20世紀末、がん細胞の増殖に関わる特定の分子を標的とする「分子標的薬」が登場します。
乳がんを例に挙げると、細胞増殖に関わる分子「HER2」をターゲットとする分子標的薬「トラスツズマブ」が日本でも2001年に承認されました。
治療の難しかったHER2陽性乳がんに対する新たな治療法として、当初トラスツズマブは大きな注目を浴びましたが、中にはトラスツズマブが効かない、もしくは効かなくなる乳がんもあります。そこで、近年大きな期待が寄せられているのが、抗がん剤エムタンシンをトラスツズマブと複合させたADC「トラスツズマブ エムタンシン」です。日本では2013年に「HER2陽性の手術不能又は再発乳癌」、2020年に「HER2陽性の乳癌における術後薬物療法」への適応承認を取得しています。
現在、国内外の多くの製薬会社がADCの開発に注力しており、今後も新薬登場が期待されます。
大野吉史:抗がん剤創製研究の歴史とプロセス―探索から開発まで―.千葉医学 92:193-196,2016
カドサイラ、HER2陽性の早期乳がんにおける術後薬物療法に対し適応追加の承認を取得|中外製薬株式会社
ADCの特徴
ADCは、がん治療薬として下記の特徴を持ちます。
- 細胞選択性が高い
- 隣接するがん細胞にも作用する
- 他疾患に応用できる可能性がある
それぞれ見ていきましょう。
細胞選択性が高い
ADCの一番の特徴は、がん細胞に対する選択性の高さです。抗体部分ががん細胞表面に過剰発現した抗原を特異的に認識するため、従来の抗がん剤より高い選択性を目指せます。
また、リンカーによって安定させることで、がん細胞に取り込まれるまで抗腫瘍作用を発揮しないよう設計することができます。
こうした特徴によって正常細胞を傷つけにくく、副作用のリスク軽減が期待されます。
隣接するがん細胞にも作用する
ADCは、隣接するがん細胞にも効果を示します。
がん細胞内で活性化した抗がん剤は、がん細胞のDNAを破壊したり、微小管に作用し細胞分裂を阻害したりすることで、がん細胞を破壊します。破壊されたがん細胞から活性化した抗がん剤が飛散し、周囲のがん細胞にも抗腫瘍作用を示すことが報告されています。
他疾患に応用できる可能性がある
ADCの技術はがんのみならず、他疾患にも応用できる可能性が高いとされています。
たとえば、抗体と抗生物質をリンカーで複合した「抗体抗生物質結合体」(AAC:antibody-antibiotic conjugate)が開発されています。近年世界中で問題となっている耐性菌に有効な抗菌薬を作り出せる可能性があります。
重症筋無力症や関節リウマチなどの治療で用いるステロイドは、長期使用によってしばしば副作用が問題となりますが、抗体と複合すれば全身の副作用を最小限に抑えながら治療効果を得ることができるかもしれません。
まだまだ試験段階ですが、今後の臨床応用が待たれるところです。
A H Staudacher,et al.:Antibody drug conjugates and bystander killing:is antigen-dependent internalisation required? BJC 117:1736-1742,2017
F Giugliano,et al.:Bystander effect of antibody-drug conjugates: fact or fiction? Breast Cancer 24:809-817,2022
ADCの問題点
ADCにはメリットだけでなく、いくつかの問題点・課題もあります。
- コストが高額である
- 副作用がある
- 薬剤耐性化のリスクがある
コストが高額である
ADCを開発・製造するためには、非常に高額なコストがかかります。抗がん剤を血液中で安定させ、がん細胞内でのみ効果を発揮させるという高い開発技術が必要なためです。抗体や抗がん剤に加えてリンカーの開発・製造も必要であり、工程も複雑になります。
臨床における普及のためにもコスト低減は重要な課題です。
副作用がある
ADCでは副作用の軽減が期待されるとはいえ、まったくないわけではありません。血液中で安定性を失い抗がん剤部分が活性化してしまえば、そのまま血液に乗って全身に波及してしまいます。がん細胞に取り込まれた後に細胞外に飛び散ってしまった場合も同様です。
これまでに眼疾患や血小板減少、貧血、下痢などのほか、とくに重篤な副作用としては肺毒性も報告されています。細胞選択性が高いとはいえ、副作用のリスクも把握しておく必要があります。
薬剤耐性化のリスクがある
ADCの普及に伴い懸念すべきは、がん細胞の耐性化です。細菌が抗生物質への耐性を獲得するのと同じように、がん細胞もADCの抗腫瘍作用に対して耐性を獲得する可能性があり、そうなれば効果は減弱します。
標的抗原が変異すればADCの細胞選択性が低下することにもなり得ます。耐性化のリスクはがん治療における長期的な課題の一つになると言えるでしょう。
S Lonial,et al.:Belantamab mafodotin for relapsed or refractory multiple myeloma (DREAMM-2): a two-arm, randomised, open-label, phase 2 study.Lancet Oncol 21(2):207-221,2020
中田隆ほか:エンハーツ®(トラスツズマブ デルクステカン)の開発経緯―抗HER2抗体薬物複合体―.Drug Delivery System 36(5):384-388, 2021
エンハーツの適正使用のお願い―間質性肺疾患に関する留意事項―(周知依頼)|日本呼吸器学会
日本で使用できるADCの一覧
2024年2月現在、日本で承認を取得しているADCは下記のとおりです(国立医薬品食品衛生研究所webサイトより=2024年7月9日閲覧)。
分類 | 一般名 | 商品名(製造販売社名) |
---|---|---|
カリケアマイシン結合ヒト化抗CD33抗体 | ゲムツズマブ オゾガマイシン | マイロターグ®(ファイザー) |
MX-DTPA結合マウス抗CD20抗体 | イブリツモマブ チウキセタン | ゼヴァリン®イットリウム(90Y)(ムンディ-PDRファーマ) |
ゼヴァリン®インジウム(111I)(ムンディ-PDRファーマ) | ||
エムタンシン修飾ヒト化抗HER2抗体 | トラスツズマブ エムタンシン | カドサイラ®(中外製薬) |
MMAE結合キメラ型抗CD30抗体 | ブレンツキシマブ ベドチン | アドセトリス®(武田薬品工業) |
オゾガマイシン結合ヒト化抗CD22抗体 | イノツズマブ オゾガマイシン | ベスポンサ®(ファイザー) |
カンプトテシン誘導体結合ヒト化抗HER2抗体 | トラスツズマブ デルクステカン | エンハーツ®(第一三共) |
サロタロカンナトリウム結合キメラ抗EGFR抗体 | セツキシマブ サロタロカンナトリウム | アキャルックス®(楽天メディカル) |
MMAE結合ヒト化抗CD79b抗体 | ポラツズマブ ベドチン | ポライビー®(中外製薬) |
MMAE結合ヒト抗nectin-4抗体 | エンホルツマブ ベドチン | パドセブ®(アステラス製薬) |
出典:国立医薬品食品衛生研究所 生物薬品部 webサイト「抗体薬物複合体」
http://www.nihs.go.jp/dbcb/approved_biologicals.html(2024年7月9日閲覧)
まとめ
この記事ではADCの作用機序や特徴、問題点などについて解説しました。
ADCは、抗がん剤に準ずる抗腫瘍作用と分子標的薬に準ずる選択性、それぞれのメリットを持ち合わせた新たながん治療薬です。正常細胞への影響が少ないため副作用も小さく、効率的にがん細胞を攻撃できると期待されています。
一方で製造コストが高額なことなど、課題も多くあります。ADCのバイオテクノロジーはさまざまな疾患への応用も可能な技術であり、さらなる発展が待たれます。
執筆者:中山 博介
神奈川県の急性期病院にて、臨床医として日々研鑽を積みながら医療に従事。専門は麻酔科であり、心臓血管外科や脳神経外科・産婦人科など幅広い手術の麻酔業務を主に担当している。
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