近年では、診療科や専門分野が細分化され、医師のキャリア選択はますます複雑なものとなってきています。世の中ではキャリアプランを明確に持つことがよいとされる風潮にありますが、すべての人が最初から目的を持ち、キャリア選択をしているかというとそうではないでしょう。
今回お話を伺ったのは、札幌厚生病院病理診断科で主任部長を務め、SNSでは病理医ヤンデル(@Dr_yandel)先生として様々な情報発信をされている市原真【いちはら しん】先生。
医学へ特別なこだわりを持っていたわけではなかった先生に、「現在のキャリアを築くことになった過程」と「後悔しないキャリア選択のカギ」を伺いました。
医学の道に進み直面した "2度の挫折"
市原先生が医師を目指した理由を教えてください。
ただ「成績が良かったから」というのが正直なところです。当時の僕は、学歴の高い場所で頭を全開に使うことが第一で、それが医学である必要はなかったし、ましてや自分が医療をするということを具体的には考えていませんでした。ですから実際に医学部に入ってからも、「何か頭を使うことに没頭できるものはないだろうか」と、臨床医ではなく医学の研究者になる道を考えていたんです。
病理研究室に入ってからは、国家試験を受けた日も、合格発表のあった日も一切関係なく大学院でずっと実験をしていて...。それくらい「自分は研究者になるんだ」という気持ちでいっぱいでした。でも、大学院でそれだけ頑張っても通用しなかった。「自分には学力しかない」と思っていたのに、その学力で上にいくことができなかったんです。
当時は「どうしよう、医師になるしかないのかな」とネガティブな気持ちでセカンドキャリアを考えはじめました。はじめに"病理"という分野を選んだのも、病理の研究室に入っていたのでトレーニングもしていたし、「病理ならなれるかな」というネガティブな理由で選んだのがきっかけです。
でも、いざ研究をやめて当時のアルバイト先の病院に入職しようと思っていた矢先、上司から「今のきみは病院では一切通用しないので、もうちょっと勉強を足した方がいいかもしれない」と言われました。......すごくショックでしたね。病理医にはなれると思って入ったけれど、なれなかった。それからすぐに休職して、当時の上司が指定した東京の国立がんセンター中央病院(現国立がん研究センター中央病院)に半年間研修に行くことになりました。
その半年間の研修では、どのような経験をされたのですか?
今はどんな医師でも後期研修が3年、そして専門医をとるのに4〜5年。半年では無理だと言われるなかで上司がなぜそこに行かせたのかというと、人脈を広げるためでした。「人脈ができれば質問できる相手ができる。北海道に戻ってきて、わからないことがあっても安心でしょう」、と。
通常、病理医は一つの病院で1〜2人、多くて3人。でも、当時僕が行った国立がんセンターには病理医が15人もいて、それぞれ胃の専門、悪性リンパ腫の専門、泌尿器科の専門など、いろいろな専門に分かれていました。
実際に行ってみたら、病理医のほかにも40人ほどの臨床医がいました。国立がんセンターの病理は本当に色々な人が出入りする場所で、「僕の診ている患者さんって、どんな細胞しているの?」と、あらゆる科の臨床医が顕微鏡を見にくるようなところでした。
そういう医師たちの姿を見ているなかで、病理医だけでなく臨床医たちともコミュニケーションをとるようになって、半年でやたらと友達という名の先輩とたくさん知り合いになって帰ってきました。心はバキバキに折れながらでしたけれど、面白い仕事だったなと思います。
選択に"言語化"が重要な理由
キャリアの選択が必要とされた場面において、市原先生が悩んだことを教えてください。
僕はずっと札幌厚生病院に勤めていますが、キャリアの途中で大学病院からのオファーが4回ほどきました。キャリア選択という意味で強烈な転職の機会があったわけですが、僕はそれを全部断っているんです。
最初は、「当時の上司が寂しそうな顔をしていた」のと「給料が下がってしまう」という、人情と金銭面で。勤めていれば給料は上がっていくかもしれないし、研究方面の仕事も増えるかもしれないけれど、「給料が下がってでも行きたい」という気持ちが僕の中にはありませんでした。
しかし、明確な理由がなく断ったことで、「これで本当によかったのか」と何年にもわたりダメージを受けることになったんです。その後にきたオファーも断わったのですが、そのときの理由は「1度目に断った整合性を取るため」。この選択は、1度目よりさらにあとを引くことになりました。
それらの決断に迷いがあった、ということでしょうか?
ネガティブな理由で断り続けていたことで、「自分の選択は本当に合っていたのだろうか」と悩むようになってしまったんです。そのときに、大学病院に行かずに"今の場所に居続ける理由"をきちんと言語化しないとだめだと思いました。
言語化するにあたり、改めて病理医の仕事を見つめ直しました。患者さんとやり取りを行う臨床医は、細胞に関して知識を持っている病理医に対しコンサルテーションを依頼する。"プロ"に頼られるという点がしびれる部分であり、"プロ相手の仕事"であることに気づけました。
自身の仕事にやりがいを感じたことこそが、自分がこの場所にとどまるポジティブな理由となり、「自分の選択は間違っていなかった」と自信を持てるようになったんです。ようやく、"頭が良ければ研究者"という雑な夢から「好きでやっている仕事だ」と言えるようになりました。
これで僕はこの先また誘われることがあっても理由を持って断れるようになったし、選択に迷いを持つことがなくなりました。自分の思いを言語化するということは、「自分の選択が間違っていなかった」と自分が納得するために必要なことだったんです。
今まで医学部を選んだときも、病理医を選択したときも、僕はフワフワと明確な理由なく選んできてしまった。30代後半になってこの答えに辿り着いたときに、やっと解放されたような気持ちになりました。
導き出した病理医の"面白さ"と"やりがい"
「病理医」という仕事に向き合って、やりがいを見出したとのことですが、具体的にどんなところをやりがいに感じたのでしょうか?また、続ける意味を見出したのかも教えてください。
病理医のやりがいは、"医師のコンサルタント"であることに尽きると思っています。なってみてわかりましたが、病理診断医は研究者というよりも商売人です。病院に勤めて多くの臨床医のオファーのもとに患者さんの組織を顕微鏡で見て、診断をつけていく。診断をつけて終わりではなく、結果を書いて臨床医に渡して使ってもらう、という流れです。
自分ひとりが細胞に詳しくても仕事は完成しません。相手が何に困っているのかを言葉ですり合わせて、相手の求めている回答を組み立てます。「癌です」「癌ではないです」だけでは仕事になりません。そこが病理医のやりがいであり、難しさでもあるんです。
面白さややりがいを感じた具体的なエピソードがあれば教えてください。
実際に病院でこの仕事をしていると、デスクのところに放射線技師さんや超音波を検査する臨床検査技師さん、若い医師、研修医が質問をしにきます。すると、彼らは細胞の話ではなく、もう少し大きい話をしていることに気づくんです。
例えば、「超音波検査で肝臓を見たら、病気はこの形だったけど、あの患者さんはどうだったの?」とか。僕は細胞を見ているので、臨床医や技師たちが見ている画像の形は知らないんです。でも、みなさんニコニコしながら聞きにくる。
僕はこれらの質問にどうしたら答えられるのかを考えながら、やり取りを10年くらい続けていましたが、ある時霧がパーッと晴れたんです。「そうか、みんなで手分けをしているんだ」、と。そこにだれが参加しているかを見て、実際に対話をして違う立場からの声を聴く。その中で自分ができることと、だれかに頼まないといけないことを分けて、視野の交換をしていくんです。一人だけでやっていると、それには永遠に気付けません。これは実践してみてわかったことです。
僕が若いときは、上司や年長者が「経験だよ」と言うたびに、「頭が良かったら経験なんて乗り越えていける」と思っていました。でも、経験値で知性を超えるというのはまったく別。『アタック25』のパネルって1枚開けただけでは絶対に後ろにある画像を答えられないですよね。何枚か開けないと見えてこない風景がある。これが今の僕に言えることです。
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キャリア選択のカギと、若手医師へのメッセージ
先ほど「やっとここにいる答えを見つけられた」という話がありましたが、市原先生は今病理医を選択して良かったと思えていると捉えてよいでしょうか?
良かったです。病理医は僕に向いている。でも、生まれてからずっと向いていたとは思っていません。ですから、正確に言うと「病理医が向いている自分になれて良かった」です。偉そうに言えるほど僕は成功していませんが、選択した後の紆余曲折をポジティブに振り返ることができたのはラッキーでした。
振り返ってみて、僕が感じた自分のキャリア選択に後悔しないポイントは、あと付けでもいいから「なぜ自分がその選択をしたのか」を言葉にできるようにすること。言葉にできないままの選択を繰り返しているうちは、なかなか自分で納得できません。なので、自分の行動をちゃんと言葉にして、言語化できるレベルで思考して、自分はここでどうしていきたいのかをちゃんと記述できるかどうか。それが後悔しないためのキャリア選択の鍵になるでしょう。
とはいえ、自分だけで自分の行動を言語化するのは難しいので、まずは色々な人の話を聞くこと。人の話す言葉にはその人の解釈が眠っていて、その人なりのストーリーがあります。キャリアを生成していくうえでは、人のストーリーをある程度借りてくるのが必要で、そのストーリーを"自分の場合"に修正していくことで割と簡単に組み立てることができます。
キャリアも自分が納得するためのストーリーをつくるために、色々な人のストーリーを聞いて、見ておく。キャリアを生成していくうえで、それがもっとも良い方法だと思います。
市原先生は、ご自身の今後のキャリアをどのようにしていきたいと考えていますか?
近々のキャリアビジョンとしては、今の病院で主任部長まで上がったので、この先よっぽどのことがない限り出世はありません。そして「この病院でずっとやっていこう」と思っているので、職場を通じたキャリアビジョンについては今後は比較的安定しているはずです。
これからは、ずっとお手伝いしていた『SNS医療のカタチ』の方面でもキャリアを伸ばしていきたいと思っています。たとえば僕の本職である病理診断学の情報を、世の中の誰もが使いやすいように配備していきたい。そのためにきちんと勉強をして、情報の中核にいる存在として、いろんな形式で発信していきたいと思っています。
最後に、これからキャリアを描いていく若手医師へメッセージをお願いします。
僕自身、若手と言われたときから18年が経ち、42歳にもなると若いときの記憶がないんです。「若い人の気持ちはわかっている」とはとても言えないですね。さまざまな考え方にぶつかって変成をくり返すうちに、忘れてしまっています。
ですから、僕の話が皆さんにすぐにマッチするとは思えません。ただ、僕らの世代の語るストーリーや考え方を自分なりの色に塗り替えていくことで、皆さんにとってのいいキャリアが描けると思います。何度も振り返りながら「キャリアはこうだ」と考えている人のメッセージは、筋が1本通っています。そういう40代を、うまく利用していってほしいですね。
まとめ
はじめは明確な目的がなく、漠然と医師としてのキャリアを歩んでいた市原先生。最近ではキャリアプランを持つことがよしとされる風潮がある中で、「必ずしも目的を持ってキャリア選択をする必要はない」ことを教えてくれました。
どんなキャリアを歩んだとしても、それが自分にとって"納得できる選択"だったのであれば、キャリアに失敗はありません。これからさらに多様化していく医師のキャリアを選択していくうえでは、"選択した理由を言語化すること"こそが、自分の選択を後悔しない重要なカギとなるでしょう。
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